自由と言われて
うちの社風は自由です、と言われて、ルールや慣行などの制約条件を探している自分に気がついた。本当の意味での自由は、制約条件を探すことではないはず。だが自分はどこかで自由には制約がある、という先入観を持っている。もちろん制約条件はあるのだが、それがどこにあるのかを先に探してから、自分の行動の領域を決めようとしている。どこかで明確な制約条件がないと不安な自分がいた。自由がまったくないことは息苦しいものだが、制約条件がまったくないこともこれまた苦しいのかもしれない。いっそ誰かが決めてくれたほうが楽だと。しかし行き詰まりも早ければ立ち直りも早くではないが、こんなときに必殺技などなく、割り切るというただそれだけのことなんだろうと思う。