ただの実行であれば

やってみようの危うさ
「需要がホントに存在するかどう変わらないから、とにかくやってみないことには。」
仮説検証サイクルを早くまわす、っていうアプローチが大流行。
しかし、そのサイクルをまわすのに6ヶ月かかる半導体業界もあるし、2日でそのサイクルを回せる音楽配信事業もある。そうサイクル期間にめちゃばらつきがあって、当然期間が長い事業ほどお金もかかる。ただ検証するってだけで。。。。

とにかくやってみる、気持ちはそれでいいんだろう。
がしかし、あえて言いたいのは、「時間と予算をどこで切るか」
という戦略性のある実行でなければ、ただの子供のおねだりとかわらない。

時間と予算がなければ、本人の勘ですべてが決まる。
そして、(としての説得力を除いて)勘を裏付けようとすれば、
それに都合のいい検証しかでてこないものである。
本来の検証は、「仮説に反するもの」を探してきて、
どこにリスク(ぶれが発生する源)があるかを確認して、
事前に備えること(事業プラン、あるいは商品そのものを修正することである。
しかし新製品は無理だべ)である。
そもそも反するものが出てきても、それがそのままその事業の収益性なりを決定的に否定できるなんてことはあまりない。
(もし、そんなのがあれば、そりゃその事業に見切りをつけていく時期なんだろう)

立てた仮説が正しいことなんて、データ(時間軸のとり方)や編集作業でどんな風にも見せることができる。だって仮説が「正しい!」ことを証明するために集められる検証なのだから。検証したから成功する、なんて反証する事実を無視してビジネスはじめるなんてばかげている。なら最初から時間も予算もかけずに勘というかセンスにたよればいい。

そもそも裏付けようのない愛とかを証明するのと同じように。
どうやってこの人を愛しているなんて検証できるか?(もちろん愛してるなんてことを説明することが求められるのかという突っ込みはあるが。おそらく、イタリア人にはいるのだろう)

センスとか感覚で感じるものに裏づけなんてやぼなだけのような。
たんに周りを説得する必要があるからと理由だけで、
試されさえしなかった事業っていっぱいありそう。
そういう事業を先週目の当たりにしたからこうして書いている。

最後に、試すというカルチャーがある会社では、いちいち時間と予算なんていう必要はないことだけは確か。そういうカルチャーが醸成されるのにコストはかかったのかもしれないし、かかっていないのかもしれない。が一度できてしまえば、償却済みで使える最高の無形固定資産である。