叱ってくれる人をわざわざ探すことの意義

自分をしかってくれる人を探す、という講座記事がちょっと前に日経産業新聞に載っていた。
耳の痛いことを言ってくれる人は貴重であり、自分が経営者に近づけば、できれば3人ほどを意図的に探したほうがよい、というお話。

私にとって耳の痛い事を言われた「その時」は正直気持ちいいものではない。「その時」はあれこれを「自分にいい訳」することもしばしある。しかし、その叱責はあとに1人になってすごく冷静になったあとに考えると、別の視点を与えてくれている。

会社内で社内的権限を持てば、直言する人間は激減するというのは不変的法則の領域に入っている。「上手い飯」は食えるようになったが、「現実」は手に入らないようになるということである。

痛い話を聞かなければならない理由は大きく2つある。ひとつは、自分はすべてを知る事はできないから、人の脳みそを借りる必要があるということ。もうひとつは「その場の体裁」よりも「素直な成長への欲求」を重んじる姿勢は部下に伝播するということである。社長が体裁に拘りを持つような傾向があれば、部下もむべなるかなである。

ところで、経営層にとっての3人は以下だそうだ。

①自分の身近にいる社内の人(鏡)
②直接利害関係のない立場からものを言ってくれる社内の人
③ 前提条件にとらわれない「正論」や権力を持つ人間としての「義務」について説いてくれる社外の人間

経営層に近い人ほど、主観的、主体性というのは強く持つ。しかし、「客観性」を確保するにはそれなりの意識努力が必要で、周囲の声、しかも叱責というのは極めて重要だ。客観性を持たなければならない理由は、結局、カネを出してくれるお客の視点こそが事業上最上位に来るからである。どんなに社会的に偉くなっても、所詮は人間。こういう矜持と諦念こそ大事にしたい。