想像できることとWhat If?

先行上映のThe Day After Tomorrowを見に行く。異常な気候変動により地球が滅亡の危機にさらされるというストーリー。ノリはIndependence Dayとまったく変わらない、まったく普通の、あいかわらず絵(IT)の派手さだけが目立つ映画だった。あえて取り上げるなら、全体の物語を支えるシナリオ構想力。もしこうなったら、どうなるだろう?それに対してどういうアクションを取るだろう?という単純なシナリオを考える構想力。

そんなことはありあえない、可能性はすくない、今やるべきことをやるしかない的という現実を基点にした思考、別の言い方をすれば、“ありえないと考えること”を考えない思考は、未知の不確実性にもろい。不確実性に直面したとき、まず心の準備ができていない。(こんなはずじゃなかった!)そしてその起こったことに対応する際に心の中で抵抗がある。(ずっと続けた来たことに対する執着がそうさせる) さらに、それを乗り越えるのにはものすごく時間がかかる。この時間は、変化への対応を遅らせるのに十分な長さである。(こんなとき節操のない人は過去と見切りをつけるという行動が早い)さらに、たちが悪いのは、“うちの子に限って”的発想で、都合のよいときだけ自分は蚊帳の外に行きたがる。
“そんなこと考えてもしゃあないやん、そんときはそのとき”。こういうのはある意味しあわせである。そして、そうやって考えずに、やり過ごしてうまくいくことももちろんある。だかそういうことばかりでもないのも事実。

シナリオをつくるというのは、イメージする力につながる。イメージする力は結果の最終形に備えることを促す。イメージできないことは達成できない。そのイメージを支える仮説も検証しようもない。シナリオはたった一つではないから、時間をかけて、多くのシナリオを想定する。ここで、時間とコストがかかるから、たいていやらない。ただ、臆病さがあればやってしまう。あれこれシナリオを思い巡らせ、将来について悩み倒す人はきわめて健全な臆病さを持ち合わせていると思う。