異文化マネジメント力についての懸賞論文(日本貿易会)

この論文を読んで触発された私の帰結は、自分の経験とかき混ぜると、

  • 「無意識は今自分の持っている常識が十分に通じない環境に身を置き、それに正面からぶつかってこそ、意識化される。」
  • 「文化もそこに住む人も認めないとこっちも認められないという性格を持つということ」

最近の自分の視野がワンパターンになってきているのは、無意識が増えすぎてきていることにある。

以下は3つの参考になる論点なのでメモッておく。

①無意識に気付くこと
「自然に学びさらに繰りされて身についているものというものは、いつの間にか自分の中に内面化されてしまい、気付かなくなってしまう。(そして)この無意識の部分、内面化されている部分に気付くということ。」

②自らを説明すること
「自分が身につけている文化の合理性を意識することができることで異文化の合理性にも自然に意識が向いていく。」

③一度飲み込んで我慢すること
「異文化の場とはアイデンティティーが常に脅かされる領域である。」


嗚呼。
日本人にとっての当たり前、無意識の中の壁。これを打破できれば、もっともっといろんな考え方を身につけることができるような誘惑さえ抱いてしまう。

しかし、無意識に向かい合ったとき、その日本以外の国の常識的行動ができない自分にも気付く。まねればいいだけなのに。そう意識をまねることなんてそう簡単なことではないのだ。
怖いものである。無意識。
今度は、その国の視点からその意識化された「無意識」を変だと思う自分を見つけることになる。

日本では言い訳は責任逃れであり、見苦しい、と考える。一方で、言い訳は自らの説明責任を果たす行為だという国々。認めても責任を取らされることはない社会とキッチリ取らされる社会に住む人々の差からくるものとは言え。。。。しっかり人だけは動かしていかなければならない。でないと経営なんてなりたたなくなる。海外オペレーションは難しいと改めて。