Kabuki goes global.

  • 歌舞伎がパリのオペラ座で初公演
  • 引越し準備で日が暮れる

あっー、ガレージセールやりたい。

  • Inputを変える

テレビをなくしてみる。今まで家にテレビがなかったことがない。これからは家にテレビがない。テレビをなくしてみる。その結果、何を得られるのか全く判らない。でも、失うものは判っている。テレビをなくしてみる。小さい変化だが、大きい収穫?すべてはOutputのため。去年できなかった初の試み。

  • 平和な消費社会が払う代償?

ちょっと前のどこかの新聞での内田樹氏の評論。

あらゆる分野で戦後60年以上にわたる平和の代償として、私たちは自分たちの集団が深刻な想定外の危機に直面する可能性を勘定に入れる習慣を失った。

塩野七生氏も「平和の代償」、ロバート・ライシュ氏も「勝者の代償」と。代償。意図して払うのか、気付かぬうちに払うのか。その差は大きい。

消費単位が小さくなれば、市場は拡大する。この算術が家族の解体と消費単位としての個人の孤独を加速した。80年代以降のグローバル資本主義が「自己決定・自己責任」論と歩調を合わせて進んだのは市場が要請したからだ。

あらゆる商品の「パーソナル化」ということ。「一つを共有」より、「一つずつの所有」へということ。では次は、ゆり戻し?次の新段階へ?

私たちはもうリスクヘッジしてくれる中間共同体を失った。誰の支援も介入もなく自己決定する生き方に同意したからだ。病気や障害や失業という「想定外の荒天」の際、弱い自分をどう生き延びさせるか、リスクに対応する術を日本人はもはや持ち合わせていない。

中間共同体は具体的には企業か?

80年代以降の子どもたちが以前と違うのは、消費者として社会的経験をスタートさせたことだ。彼(女)らはあらゆることについて「何の意味があるんですか?」と問うところから始め、自分に理解できる解答以外は受け付けない。消費者マインドで世界に対するときの必然だ。消費者は自分に価値や有用性が理解できない商品を購入しないからだ。

慧眼。消費者として世界を観るというのはどういうことか?
(1)効率重視・無駄排除・最小の努力と最大の成果
「こっちのほうが効率がいい」という言葉が癖になる。
(2)価値の追求
「付加価値は何?」を考える。ただ、自らのモノをみる枠組み内での「付加価値」であるならば、他者の枠組み内での「付加価値」を見逃すことが多くなる。消費は自らのためにあるからだ。
(3)意味づけの渇望
「どんな意味があるの?」
(4)耐性の喪失
消費は耐性の喪失を助長するトレンドにある。
(5)Money-centeredな序列
ランキングや序列は、金額の多寡をもってなされる。

あうんの呼吸、空気を読む、とかいうのは消費者としての発想には有り得ない。価格と価値の交換、これを繰り返す中で、理解できないもの、透明性の低いものは退けられる。そして、見えないものを見るという必然性はなくなってくる。透明性のないものは限りなく「受け入れられない」方向へ向かうのが消費主流社会の本質。

学ぶことの意味を問われて答える事のできる教師は本来いないはずだ。学び終えて初めてその意味が自身で理解できるのであり、そのことこそが学ぶことの動機づけになるものだからだ。子どもにも理解できるような動機づけで子どもを導くことはできない。

何かをなす前にその何かの意味を知ることは、学ぶことに限らず、そう簡単なことではない。たとえ大人になっても。