証明できないのは未来、と、もう一つは感情?

遠い昔、何かのきっかけで、とあるフランス人に「Are you happy?」と言われて、「うっっーん・・・・」と考える姿を見られて、「I know it!」と言われて気付いたのは、他人に公言するような「幸福論」(年収だ、ポジションだ、家族だなどいろいろ)ならいくらでもその人なりの理屈があるし、また、立派なことを言いたいなら即興でつくればいいし、それに対してなんら議論の余地も残されていない。一方で、「幸福感」はもう会った瞬間の雰囲気や話している時の目の様子で「伝わってくる」類のもので、非言語会話というのは恐ろしい、ということだ。
この昔話を思い出したのは、最近あったクライアントとのディスカッション(報告会ではない)での「満足感」が急速に落ちていく「瞬間が伝わってきた」からだ。こういうことは職業柄たまにあるので、後にリカバリーすることもコンサルティングする立場の人間にとって必要な能力になってくるのだが、実際無いに越したことは無い。
さらには、映画「コンタクト」で、男性が科学者である女性に「愛しているということを証明してみろ」と台詞があったことを思い出す(もちろん、この男性はそれが無理ということも知っていて言っていて、さらに別に証明してもらわなくても愛されていることをすでに知っている)。本質的に、幸福であることを、愛していることを、満足していることを「述べてもらう」、(これと、これと、これと、という具合に理屈に並び替えてもらう)のは無理なのかもしれない(言語的には可能だが)。その場で伝わってきたことを感じ取ること。そこに集中する。それしかないかもしれない。