自分で考える

自分で考える、考えている、考えた!という際の諸条件は、暫定的であるが、以下のように感じている。

①「普通は・・・」と考えない。
「普通は・・・」と考えたとたん、「・・・」の部分はある人には通じにくい。正確に言うと、通じる人が少数で、通じない人というのが大多数、ということだ。というのも、普通以下の「・・・」は、ある場で一定期間活動をともにした人たちが、「普通以外は○○○」という考えをおのおのが意識しなくなるレベルまで「・・・」を共有したときに生まれるから。つまり、「いちいち」言わなくてもわかりあうという思考の同質化を招くわけです。「内」という一定の場とそれ以外の「外」の境界線を築くのがこの言葉の特徴です。
また、「私は・・・」よりも威力があるのもこの言葉。「場全体」を味方に付けようとするからです。ただ、これを多用する人ははっきり言って自分の脳みそで考えていないことの証左を垂れ流しているようなものなので、わかりやすい言葉でもあります。

また、「普通は・・・」が人との議論の中で威力を発揮するのは、その場だけである。あるいは2人以上の関係にはっきりと利害関係上の優劣が成り立っているとき。社長が「普通は・・・」と言えば、社員との間に議論や聞くという姿勢は成立しない。

②専門家、権威のある人の考えに自分の考えをゆだねない
「あの人はこういっていた」、だから・・・は×。その例はいいとして、で、貴方はどう思うの?と問われて、「だからあの人はこう言っていた」といえば、もう話す気はなくなる。

③欧米では・・・と場所や文化圏を持ち出さない。
こういう例があります、という際にはいい。しかし、意見の正当性をここに求めるともうわかりますよね?

こういっておきながら自分自身、まだまだ①が幾分ある。そう思考停止なのです。自分で考えるというのは、ほんと大変なことなのだ。