静的・動的に捉える

6大金融グループの決算。株主価値至上主義というグローバル(と勝手に定義された)水準ではまだまだというメディアの論調。一方で欠損繰越金で税金を払っていない、低い金利で顧客還元していない金融グループにはさらにその矛先は鋭い様子。死語ながら「外圧」であるような気がする。ひと昔前はこれが政府による政治的要因であったが、昨今の外圧は株主・顧客という市場的要因である。
ところで、ものの捉え方として、「動的に見るか、静的に見るか」という軸がある。ある事柄を見て「レベルが高い」と感じるのは「静的に見ている」。例えて言うなら、一枚の写真。次の動きは判らない。大抵の場合、写真を撮るために人はわざわざ静止するほど。次にどう動いているかということを無視しているのが静的な見方。一方で、ある事柄を見て「動きが速い、鈍い」と感じるのは「動的に見ている」。例えて言うなら動画。今どう動いているかという事を意識した見方。
さて、アメリカ企業社会は静的に見れば多くの面で日本より水準(位置・レベル)が高いと見られているように思える。開発において先進的とか利益率が高いとか経営手法が多いとか・・・ただ、動的にみると、米国的経営手法の結果、米国企業は①いい調子で回っているのか、それとも②行き詰まりつつあるのか、はたまた③完全に凋落しているのか、という動きに分かれる。
そこに来て、絶対米国的手法の真似などするな、というのがドラッカー氏亡き後の論客ミンツバーグ。静的にみれば米国は高い位置にあるのかもしれないが、それは動的に見れば堕ちている、というのが氏の趣旨。「それ」が堕ちて来ていても、「それ」が相対的に高い位置にあれば真似てしまう、というのはよくあることかもしれないが、日本企業がそのパターンにはまっているように見えるのかもしれない、氏には。
話は戻って静的・動的に見る事の肝は、「静的なものほど動的に見る、動的なものほど静的に見る」ところにあるのではないかと思うことが最近よくある。静的なものを動的にとらえる、つまり次の動きをイメージする、動的なものを静的にとらえる、つまり現状がどうなっているのかをつぶさに見つめる。静的なものを静的に、動的なものを動的にみても気づきは少ないし、他者と同じ視点でしかない。そこのクリエイティブティさはないような気がする。
氏は、「内省しなければ、経験は経験として身に付かない」と。漫然とした経験では駄目で、立ち止まって自分の経験を振り返る、一歩下がって自分の経験を見つめ直すという内省が必要と。