コミュニケーションがすべてで、そして最初

  • 伝え方よりも、「受け止め方」の問題

アインシュタインは言う。
「どうして自分を責めるんだ? 他人がちゃんと責めてくれるんだから、いいじゃないか!」

宇多田ヒカルは歌う。
「痛めつけなくても この身はいつか滅びるものだから、甘えてなんぼ(大阪弁!)」

どう受け止めるかってこと、ただそれだけの違いのような気がする。

  • 「情報共有≠共通認識」

職場のコミュニケーションが劣化したとか
彼女・彼氏・嫁・旦那とのコミュニケーションが劣化したとか
なんとなく、誰しもが気付いていながら、ついつい放置してしまって、
ある出来事をきっかけに決定的に関係が崩れるってことはよくある。
企業組織でもそうだ。

そして、なんとなくもう崩れているのがお互いにわかっているのに
表面上は崩れていないかのように無理して振舞ったりする。
なのに、コミュニケーションをちゃんとできているかどうか管理しようとか、その効果を計ろうとか、意図的にコミュニケーションの場を作ろうとか、そんな野暮なことを言う人はいない。いつも後回しだ。

ある人を愛してることを証明してみろ!と言われていることに等しいほど、コミュニケーションは難しい。本質的に言えば、相手に依存するから。伝えても、伝わっていない、ということがあるのはこのためだ。
ただ、証明はできないけど、言ってみる、触れてみる、ってやはりコミュニケーションの根っこだ。これをやめたらすべてが終わる。

  • 見えるものと見えないもの

見えないいい例が、恋愛である。
これは気持ちの往復だからよそ様からは見えない。
本人たちが公表しても、気持ちの往来の様子は見えない。
見える化がきわめて難しいという見えない例。

一方で普段は見えないが、見える化を可能にすることができる例もある。
某車修理チェーン(日本で言うイエローハットのような業態)では米国内にある200百以上の拠点でばらばらに購入しているからすべての手袋の実物を集めて机の上に並べて、その無駄を訴えトップにソーシングの集権化を迫ったという例があった。

確かに約1500種類ほどの手袋が机の上に並んでいるのを眺めて、感覚的にまずいなという危機意識をトップがもったのには想像に難くない。

見える化だと図やグラフにするということが最終点ではなく、実物を並べる、というのも一つの見える化なのだ。そう頻繁にできることではないが。

視覚という感覚から見ると、人間は文章⇒表・図⇒色の順番に直感に強く訴えられ、論理を飛び越えた危機意識を生み出す。

業務改革の場において、その現場に居合わせてつぶさに作業員の人たちの作業動作を観察して、無駄じゃないの?とあたりをつけて聞いていくが、聞かなくとも、手で書き写している、手で入力している業務はまっさきにその的になる。
しかし、それを意識して見て初めて見える。見える化するとなると、平均作業の時間を計測して、全体量を調べて、そして合計時間を出していくという過程を経て、数字に置き換えることになる。
こういう見える化は後になってすることあって、決して書類や作業を導入する前にはしないことだ。一枚の書類、一連の運用作業がどれだけの時間を必要としているのかの大抵目安がない。

そう、恋愛を始めれば、明らかに自分の時間は減る。
ただ、だれもそんな時間は前もって計ったりしない。
だって、いいと思ってするものだから。

  • 現場に行ってもすべて見えるわけではない

見えない部分として、
1) 新しく始めた事の意図・背景・方針がどのくらい社員に浸透しているのか?(浸透度)
2) 新しい組織体制の中での各職責の役割は明確であると社員は感じているか?(明確度)
さらに、見えない部分として
3) 日常のコミュニケーションの状態はどうなっているのか?
4) 部門間の意識のズレ、そして階層による意識のズレはどのくらいあるのか?
さらに、もっと見えない部分として
5) 社員が自分の意見やアイデアを提案でき、それをフィードバックする土壌があるか?
6) 社員がどのくらいのモチベーションを持って仕事をしているか?
現場の社員の方は業務の改善提案をしているが、上の方で「真剣に」取り上げていなかったことが繰り返されていたようで現場には学習性無力感があったりすることもよくある。こういうところを見逃して、現場を見てもあまり意味はない。

  • 忘れてはいけない力学

エコノミストを読んでいて中国の記事。1兆ドルを超えた外貨準備高のうち、6割を占める米ドルが大幅に下落するようなことだけは中国政府としては避けたい。中央銀行の資産の目減り=信用力の低下だから。このインセンティブが米国と向き合う中で影響してくることは必至か?