戦う姿

いきなりある会社が脱税して、社長が捕まる。それに加担した会計士が捕まる。そんなニュースは決して珍しいことでもなんでもなく、その翌日には忘れてしまっている。そしてそのニュースは前触れもなくやってきて、何にもなかったかのように(ホントに何もないのだが)忘れ去られてしまう。

しかし、この社長の逮捕は当面忘れそうもない。あまりにも多くの人がそれを目撃した。あまりにも多くの人が良くも悪くも揺さぶられた。ルールも価値観だ。少なくとも自らの立ち位置を必死に探したはず。
ルール以上なのか?いや倫理以上なのか?と。
結果、彼は「ルール未満」(とされている)だっただけに失望も多いのだろう。

だた、間違いなく、堀江社長が残したもの。
それは「戦う姿」であったと思う。
その戦う姿は、ベンチャーがエスタブリッシュメントに挑むという姿であった。
おおよそ社会でよしとされている価値観と戦う姿であったし、既存の経営手法と戦う姿でもあった。よしあしではなく、ゆさぶりとは変化の前に必ずある。

彼の行ったとされる経営手法という頭巾をかぶった錬金術は決して踏襲されるべきではないが、戦うこと、(血なまぐさいことではなく)、純粋に越えたい壁を越えようともがく、という戦う姿は取りもどす必要があるし、受け継がれていくべきだ。
「やっぱりいんちきだった」と彼を見抜いた人たちがその自分の眼に悦に入ることにそれほど意味があるとは思わない。いや、やらなければならない問いは、「自分は自分の範囲で戦っているのか」ということだ。

揺さぶられた日本経済社会はこれでまた自らの立ち位置を改めて確認する作業を行うし、「あれはなんだったのか?」と今の騒々しさがなくなれば思うのかもしれない。
しかし、戦って新しい何かを作り出していくために戦うことを忘れてはいけない、ということも学んだまだまだ青い私であった。